ティンク物語

 

このお話は、2001年冬に、薫風舎日記として掲載したものです。

 

 

 

1999年の夏、薫風舎とともに生まれ育った最愛の家族チャイが、交通事故で逝った。8月7日行方不明になってから発見されるまでの3日間、私たちは必死で捜し歩いていた。そのとき、美瑛の町でそっくりな犬が赤いリードを引きずって歩いているのを見かけた、という情報を何人かの方からいただいた。チャイがひとりで帰って来れないはずはないし、だいいち赤いリードを引きずっているわけはないので、残念だが違う犬だということはすぐにわかった。リードを引きずっているのだから、きっとどこかで飼われている犬が時々脱走して散歩しているんだろう、というくらいに思った。
9月の連休が過ぎた頃、当時のスタッフの久美ちゃんと3人でお昼を食べに出かけた。帰り道、駅前の裏通りを通ったとき、一匹の犬がひょろっと車の横のほうを歩いているのを主人が発見した。見ると、薄汚れたみすぼらしい犬が、先がもうぼろぼろに短くなった赤いリードを引きずっている。その瞬間私たちは、あれ以来すっかり忘れていたチャイに似た犬のことを思い出した。あれから一ヶ月以上たっているのに、まだうろうろしていたのか。ぐずぐずのリードが、長い間の放浪を私たちに訴えているようだった。
とにかく危険なのでリードを取ってやらなければと思い、車から降りた。犬は、ちょっと立ち止まりこちらを見たが、近づこうとするとさっと身をひるがえし、家と家のの隙間に逃げ込んでしまった。私たちは車で先回りをして向こう側に行ったが、その気配を察知して、すぐにまた姿をくらました。しばらくそのあたりを歩いたが、もう見つけることはできず、時間が迫ってきたのであきらめてうちに帰った。
うちに帰ってからも、その犬のことが気になってどうしようもない。とてもこのまま放っては置けない。何とかしてやらなければ・・・。私たちはいてもたってもいられなくなったのだった。

 

 

次の日またお昼頃、時間を作ってあの犬を発見したあたりに行ってみた。ずいぶん広い範囲で車をゆっくり走らせたが、姿を見ることはできなかった。その次の日も、今度は私ひとりでしばらく探したが手がかりはなかった。見つけたときのためになにか食べるものを買っておこうと、駅の近くのセブンイレブンに入って、ついでに自分たちの昼食を買い店を出た。出たところで、通りの向こう側をひょこひょこと歩いている薄茶の犬を見つけた。あっと心の中で叫んで、できるだけ静かに通りを渡ろうとした。すると、その犬は私に気づき、立ち止まってこちらを見た。目が合った。「大丈夫だよ、じっとしてて。」声をかけながら、静かに近づいた。しばらくこちらの動きを見ていた犬は、ある距離より私が近づくと、ふっと後ろを振り返り、斜めに道路を渡ったかと思うと足早にまた家の隙間へと消えていった。
私たちは、宿の忙しい合間を縫って、早朝、昼、夜と、その犬を探し続けた。時々不意に現れるが、相手はこのあたりの裏道という裏道を知り尽くしている。どうにも暖簾に腕押しのように思えて仕方がなかった。よく見かけるあたりの家々に、聞き込みもはじめた。どうも、夏よりもずいぶん前からうろうろしているらしい。最初のうちは、人恋しそうに、犬の散歩のあとをひょこひょことついてきたりしていたが、だんだん警戒心が強くなり、赤いリードも短くなっていったそうだ。
夏から、えさを与えてくれていたという男性は、ずいぶん慣れて、手からえさを食べるようにまでなったが、ある日頭をなでようとそおっと手を出したら、それ以来近くに全く来なくなったと教えてくれた。一度は役場の檻にかかったがするりと逃げて、それ以来ますます警戒心が強くなったそうだ。相当頭が良く、絶対に誰も寄せ付けないからつかまえるのは無理だとも言われた。
何とか雪が降るまでに保護しなければ。10月に入り、何のきっかけもつかめぬまま時間だけが漫然と過ぎていく中で、私たちは焦った。よく見かける道、ねぐららしき民家の庭先、通り道の軒下・・。餌を置かせてもらったり、安心するのではとムックを連れて行ってみたり、思いつくことはすべてやってみたが、やがてうちの車を見ただけで逃げ出すようになってしまった。追えば追うほど
逆効果であるような気がして、虚無感にさいなまれ始めた。

 

 

私たちはその薄汚れてぼろぼろになった薄茶色の犬に、「ティンク」という名前を付けていた。いつもおどおどと脅えた目をして路地裏を隠れるように逃げていく。せめて名前だけは素敵でかわいいのにしてあげようと思った。ティンカーベル。ピーターパンに出てくる妖精。物腰の軽やかさと利口そうな顔立ちが、彼女(勝手にそう思っていた。)のイメージにぴったりだ。犬の名前を付けるとき、まず最初の発音が耳に入りやすい響きであることを考えるようにしている。呼ばれたときにすぐに反応しやすく、遠くにいてもよく聞こえるように。「ティン」という響きは美しく聞こえやすい。そうだ「ティンク」にしよう。いつしか私たちはその犬をティンクと呼んでいた。いくら聞こえやすい名前を付けても、本人に認知されなければどうしようもないと思うと空しかった。
毎日のように訪れる私たちに、ティンクは心を許すどころか次第に警戒心を強めていくようだった。いままで近所の人たちにご飯をもらい、自分でいくつかのねぐらも作って、ひょっとすると放浪生活をけっこう楽しんでいたのではないか。それを私たちはかえって荒らしてしまったのではないか、とすら思うようになっていった。毎日のように追いまわすのは逆効果でしかない。10月も末になると、心身ともに私たちは疲れ果てていた。
少し間を置こう。もうずいぶん近所の人たちとも親しくなっていた私たちは、もしなにかあれば必ず連絡をしてもらうように頼んで、しばらく距離を置くことにした。そう思いながらも、美瑛の街に出れば、ティンクのいそうなところをまわってしまう。時々元気そうな姿を見つけほっとしながら、やはりするりと逃げられる、という日々が続いた。

 

 

雪が降って、私たちはあきらめの気持ちが強くなってきた。いつか、引きずっていた紐は首輪ごと取れていた。紐も首輪もなければ、たとえどこかに追い詰められたとしても、野犬化したティンクにそうたやすくは手を出せない。しかし、寒さと雪はティンクにとってどんなにつらいだろう。自分たちの無力さに、本当に心が痛んだ。
ティンクを一番よく見かけたのは、「北工房」という自家焙煎の喫茶店の前だった。コーヒーを飲みに行くと、よくご主人の石村さんご夫妻とティンクの話をした。石村さんのところのモカというゴールデンレトリーバーが、よく自分の餌をティンクに差し出していたそうだ。石村さんがモカの散歩に行くときには、数メートルの距離をおいてよくついてくるという話も聞いた。それでもちょっとでも近づこうとすると、さっと逃げるのだそうだ。利口でおとなしいティンクは、その警戒心の強さゆえ、街の中で何ヶ月もの間生き延びているのだろう。しかし、−20度を超える真冬の寒さ、今までのねぐらも雪で埋め尽くされている。いくら利口なティンクといえども、無事冬を越えることができるとは思えなかった。
春になった。しばらくティンクの姿を見なくなっていた。時折、嫌な予感が頭をよぎった。街に犬猫用の毒団子を蒔いている人がいる、という噂を耳にしたときには、さすがにもうだめだと思った。その後しばらくして、主人が無事な姿を目撃したときには、本当にほっとした。しかし、これ以上私たちに何ができるのか。冬を無事に過ごしたのだ。無理やり違った環境に連れていくよりも、このまま周りの人たちに餌をもらいながら暮らすことのほうが、ティンクにとっては幸せなのかもしれない。いいかげん気持ちを切り換えなければ、こちらのほうがまいってしまう。「北工房」の石村さんに連絡をお願いしつつ、シーズンに入る頃には、努めて忘れるように心がけていた。

 

 

また暑い夏がやってきた。シーズンの折り返し、8月1日は雲ひとつない青空が広がり、朝から猛烈な暑さを予感させていた。チャイの一周忌を一週間後に控えていた。
午前10時。全館清掃をはじめるべく、ラウンジの椅子を上げ始めた。電話が鳴った。主人が出た。話している内容を聞いても、誰からの電話なのか、どういう内容なのか、予測もつかなかった。しかし、ただ事ではない、ということだけは分かった。妙に体が緊張したことを、今でも覚えている。
北工房の石村さんからだった。ティンクが昨日捕まえられ、役場に連れて行かれたという知らせだった。すぐさま役場に電話をした。なかなか要領を得ない。担当者から直接電話をもらうことにして、とりあえず客室の掃除をはじめた。電話を待つ時間が、途方もなく長く感じられた。
電話が鳴った。主人が出た。「えっ?」という主人の叫び声に、良い知らせではないことがすぐわかった。電話を切った主人が、吐き出すようにつぶやいた。「昨日のうちに旭川医大に送られたそうだ。」体が凍りついた。そんなバカな!役場にも、私たちは何度も頼んでいた。あの犬がもし捕まったら連絡をくれると言っていたではないか!だいいち、捕獲したその日に医大に連れて行くなんて、命をどう考えているんだ。憤りとともに、なぜもっと必死になって保護してやらなかったかと、自分自身に腹が立って、どうしようもなかった。

 


 

落胆している暇はなかった。とにかく一刻も早く、旭川医大の動物実験棟に電話をしなければ。あろうことか、役場では連絡先もわからないといわれた。主人が電話帳で調べた。ようやく電話番号を探し当て、主人が電話をかけた。電話をかけている間も、私は掃除の手を休めるわけにはいかない。祈るような気持ちだった。
ティンクは生きていた。しかし、元気な姿を見るまでは安心はできない。体の緊張はほぐれなかった。とにかく一刻も早く保護しに行かなければ。大急ぎで掃除を終わらせ、チェックインの午後3時に間に合うように帰ってこなければならない。気持ちは焦った。
12時過ぎ、スタッフのあっこちゃんに留守番を頼んで、とにかく私たちは出発した。あれだけ人を警戒していたティンクだ。いくらおとなしいといっても、野犬化し、しかも極限状態に置かれた犬に手を出すのは、危険である。どうやって首輪をかけ、車にのせるか。35℃を越す猛烈な暑さの中、かまれたときのために、冬用のジャケットと皮の手袋を車に積んで行った。
旭川医大の正面玄関からはるか奥まったところに、その動物実験棟は、異様な雰囲気で建っていた。車を降りると、自分の運命を悟ったかのような犬や猫たちの悲しげな鳴き声がひびいている。できることなら、みんな救ってやりたい。でも、私たちにはそれができない。今の状況ではティンクを引き取るのが精一杯だった。涙があふれてきた。主人が、途中で買ったリードを持って、その鳴き声のする扉の中へ入っていった。待っている間、彼らを助けてやれない自分の無力さが苦しく、どうしようもない気持ちになった。
しばらくすると、扉が開いた。ティンクだ。ぼろぼろにやつれたティンクが、主人に連れられて出てきた。ティンクは、そのまままっすぐ車まで歩いてくると、当たり前のように自分で車に乗り込んだのだった。わたしたちは、そのあまりにも自然なティンクの行動に、あっけに取られた。車に乗ってから、ティンクはじっと後ろの座席の下にうずくまり、自分の運命を用心深く観察しているようだった。美瑛に着いて、主人が買い物をしている間に、そっと体に触れてみた。びくりともしないで触らせた。
家に着いて、とりあえずしばらくプライベートルームのほうのデッキに繋ぐことにした。ティンクは、すぐさまうちを我が家と心に決めたようだった。次の日にはかすかに尻尾を振り、ムックとも一週間ほどで仲良くなった。
あらためて近くで見ると、その姿も眼つきも、引っ込み思案な性格まで、チャイにあまりにもよく似ていた。チャイが生まれ変わったか乗り移ったとしか思えないほどだった。少なくともチャイがティンクをここに導いてくれたに違いないと、主人も私もそしてムックも信じた。
ティンクが家族となって8ヶ月が過ぎようとしている。何事もなかったように暖炉の前で寝そべるティンクの寝顔を見ていると、私たちの姿を見るたびにそそくさと逃げていったあの薄茶色の犬と、同じ犬とはとても信じがたい気がする。今でも美瑛の町へ行くと、ティンクがふらりと姿を見せるような錯覚を覚える。