Top Page
バックナンバー  1998年
バックナンバー  1999年
バックナンバー  2000年    
食べある記
 
バックナンバー  2000年
7月
8月
9月
10月
11月
12月
   
 
バックナンバー  2001年
バックナンバー  2002年
バックナンバー  2003年
バックナンバー  2004年
バックナンバー  2005年
 
バックナンバー  2006年
バックナンバー  2007年
バックナンバー  2008年
バックナンバー  2009年
バックナンバー  2010年



99年12月24日 00時29分28秒
東北、長野の旅%その2〜秋田から酒田へ
今朝、はなまるマーケットで、秋田郷土料理の旅というのをやっていました。男鹿半島や、角館、きりたんぽにがっこなど、懐かしいところやおいしいものがたくさん映っていました。おっと、忘れちゃいけない、薫風舎日記の続きを早く書かなくっちゃ。
11月8日に美瑛を出発して、9日の朝、ようやく秋田上陸。一気に長野はきついので、途中で一泊することにしました。なぜ酒田を選んだかは、また後ほど書くといたしまして、せっかくだから、秋田の日本海側を少し見てから、と思っていたら、出発直前、秋田出身で、現在は北海道で中学の先生をなさっている、常連のお客様、小武海氏から、ものすごく詳しく、ちょっとマニアックな秋田情報のメールが届きました。
そこには、男鹿半島と秋田から酒田へ下る日本海岸沿いの見所が、たくさん書いてあり、出発前から、秋田への期待が大きく膨らんだのでした。
秋田港に到着すると、ムックのトイレを済ませ、一路男鹿半島へ。小武海氏の指示どおり、まずは寒風山に向かいました。杉林の間を抜けて、どんどん登っていくと、やがて日本海の美しい海岸線と、八郎潟、秋田の田園風景が広がってきました。
頂上付近の、回転展望台まで上がっていくと、展望台の吹きっさらしのなか、1人寒そうに立っている人影が。おおっ、あれは、なまはげではありませんか。
実は、わたしが幼少の頃、世界で一番怖かったのが、他でもない、なまはげなのです。両親からしかられて、なまはげに電話された時には(母は、演技が上手だった!)、この世の終わりだと思ったものです。
今回、わたしがひそかに男鹿半島で楽しみにしていた、なまはげに、こんなに早く会えるなんて!しかも、一緒に写真をとってくれる(モデル料500円と書いてあった。)だなんて、なんてわたしはラッキーなのでしょう。
あきれる主人を尻目に、慌ててカメラを取ってきて、一緒に写真を取ってもらったのでした。 でも、写真を撮り終わると、「はい、500えん。」とかなんとか言いながら、お面を取ったりして、なんだか、イメージが崩れたような、ちょっとがっかりした気持ちになってしまいました。
・・・と言いつつ、そのあと懲りもせず、なまはげ館へ。なまはげの歴史や、何十体もある、各地のなまはげを見てから、別館の伝承館で、なまはげの行事を体験しました。「おめえが、悪い嫁こかぁ!」と、手をつかまれ、幼少の恐怖がよみがえってきましたが、なまはげのわらをもっていると、縁起が良いと言うので、気を取り直して、恥ずかしげもなく拾い集めました。
その後、自由に記念撮影をして良いとのこと、寒風山で寒さに震えるなまはげに500円もし払ったなんて、と、その時初めて悔やみました。
ああおもしろかったと、車に戻って、拾ったわらをムックの首に巻きつけ、気が付くともう昼近く。こんなことでは、酒田にたどり着けません。
急ぎ足で、秋田に戻り、昼食。本荘、象潟も泣く泣く素通りし、鳥海山スカイラインも諦めて、一路酒田へ向かったのでした。
5時近くなって、ようやく酒田へたどり着いたものの、時すでに遅し。小武海さんお勧めの、 「土門拳記念館」も「山居倉庫」も、みんな閉まって、見ることができないまま、 日は暮れ、夜は深けていきました。・・・つづく 



99年12月02日 00時37分23秒
秋の東北、信州の旅
 今年のシーズンを何とか無事に終え、主人とムックと私の3人が、夏から楽しみにしていた(ムックはそうでもなかったかも。)東北、信州の旅に出発したのは、カラマツの紅葉も終わりにさしかかった、11月8日でした。
 今回の旅行の第一の目的は、主人と私が18年程前にアルバイトしていた、長野の志賀高原とその辺りを訪れることでしたが、車で行くので、犬のムックがおしっこを我慢できる時間を考えると、フェリーに乗るのは、今年就航した苫小牧−秋田の12時間が精一杯。そこからは、陸を走ることにしました。
 当初は、青森から一気に長野まで走る予定でしたが、大勢のお客様に、それは無謀だと、口々に制され、それならば東北も見たいなどと、だんだん欲も出てきて、予定を何度も組み直したのでした。
 8日の夜、苫小牧を出発して、翌朝秋田に着き、その日は山形の酒田に1泊。そこから長野まで走り、夜間瀬の叔母のところに2泊、そして仙台、秋田の角館、後生掛温泉、函館に1泊ずつして、そこから一気に美瑛まで帰るという、8泊9日の予定を組みました。が、実際に走ってみるとこれでも、超ハード。 函館まで行く元気はとてもなくなり、結局、最終日は青森から室蘭に渡り、その日の夜中、札幌の実家に転がり込みました。
 いつも旅行の時には、(旅行じゃなくても)どこで何を食べるかというのが、最大の関心事である私たちは、常日頃から胃腸の丈夫なことを自慢にしているのですが、今回は、旅行中運動不足のうえ、たくさん食べては、長時間車に揺られて、胃をかき回されるので、不覚にも、すっかり胃と腸の調子を崩してしまいました。
 それでも、せっかくの旅行なのに、おいしいものを我慢するなんて、私にはとてもできません。薬を飲みながら、食べ続けて、札幌に帰って両親にあきれられ、しばらく何も食べるなと怒られてしまいました。(家に帰って、言われたとおりにしたら、1日で直ってしまった・・・。)
 東北や長野の美しい風景、懐かしい人たちとの再会、数々のおいしいもの(懲りない私は、今ダイエット中・・・のつもり。でも誰も信じてくれません。)など、今回の旅行での、さまざまな出会いや発見は、 どれも忘れがたく、楽しい思い出となったのでした。以下次号。
 
    99年7月11日 11時45分22秒
    今年の畑は?その2〜まわりの畑〜

     7月に入り、夏らしい日が続いています。
     いま、となりの笹本さんのじゃがいも畑の、白とうす紫の花が満開で、その先の、秋蒔きの小麦が、毎日少しずつ色を変え、黄色みを帯びてきています。道を挟んで裏側の小麦畑も、それより少し早く、色を変えています。この麦の色をなんと言い表したら良いか。色見本を開いてみると、鶸色(ひわいろ)と、刈安のちょうど間くらいとでも言いましょうか、そんな色が、夏の明るい太陽の下で、やわらかい風になびきながら、輝いています。
     うちの小さい畑の後ろに去年蒔いたキカラシの種がこぼれて、黄色い花を咲かせています。朝夕、厨房で、仕事の手をちょっと休めて、窓の外のから松林の方を眺めると、キカラシの向こうに小豆の少し濃い緑、じゃがいもの花の白とうす紫、そしてその奥に黄色みを帯びた、なんともいえない涼しげな色の麦畑が、何層にも重なり合って、疲れた私たちの目を、楽しませてくれるのです。



    99年7月01日 13時18分30秒
    おわび

    薫風舎日記を楽しみにしてくださっている方々へ、途方もなく長い間、ゴールデンウィークの騒動にお付き合いいただき、申し訳ありませんでした。
    書く材料に事欠かない季節だったのですが、いかんせん、シーズンに突入すると、本当にパソコンに向かう時間を作るのが、難しいのです。
     気になりつつも、昼間はお天気が良いと畑や庭に出なきゃならないし、夜は、お客様がいらっしゃると、ほとんど時間を取ることができません。頭の中には書きたいことがたくさんあって、気持ちはあせるのですが、気がつくともう7月!これから2ヶ月間が、一年中でもっとも忙しい季節だというのに・・・。でも、くじけてはいられない。頑張らなくっちゃ!
    常連のお客様などから、ほんの一言で良いから更新してくれと、多数お叱りと励ましの声もいただき、気持ちも新たに、薫風舎日記ショートショート夏バージョンを、スタートさせる決心をいたしました。
    まずは、今年の薫風舎とこのあたりの畑事情から、少しずつご紹介させていただきます。
    今年の畑は?その1〜我が家の野菜畑〜
    今年は、雪解けがとても遅くて、なかなか畑に入ることができませんでした。去年は、GW前に大根や人参などを植えられたのですが、今年は、5月20日頃、ようやく前の畑を耕していただき、いっきに作業を進めたのでした。
    とうもろこしやインゲン、ズッキーニといったレギュラー選手のほか、新顔が、いくつか登場しています。まずはルッコラ。ゴマの香りの葉をサラダに入れると、とてもおいしく、今がちょうど食べ頃です。
    枝豆は、毎年前の畑の笹本さんからいただいている青大豆に加えて、こくがあって、すごくおいしいからと、友達に勧められて黒豆を植えてみました。9月になると、夜、お客様たちと茹でたての枝豆を囲みます。  最近スーパーで見かけるスナップエンドウや、3年前に一度作った、ビーツというロシアの真っ赤なカブも、植えてみました。
    真っ赤なオクラにも挑戦したのですが、これは失敗。オクラは、どんな芽で、どんな木でどのようになるのか、まったく分からなかったので、やがて出てきた雑草の中のどれかがオクラの芽に違いないと信じて、時々畑にしゃがんでみていましたが、出ていたのは、やはり皆雑草で、ホンモノのオクラは、なっているところどころか、芽も見ずに終わりました。
    大根も少しずつ大きくなり、トマトも青い実をつけています。もう1〜2週間すると、我が家の畑から、色々な野菜がとれることでしょう。(つづく)



    99年6月19日 23時02分50秒
    春の大騒動と沖縄民謡の夜
     今年は、いつにもましてバラエティー豊かで、賑やかなゴールデンウィークになりました。
     フランス人家族が滞在してくださったり、常連のお客さんたちとの、連日の楽しい夜のひととき、はたまた、ホームページを作ってくださっている横浜の佐竹さんを拉致して、夜中までかかってパソコンの大掃除、など盛りだくさんのプログラム。そして極めつけが、ゴールデンウィークも終盤にさしかかった5月3日の、大騒ぎの出来事でした。
     その日は、朝から強い風が吹き、天気予報でも4日は全道的に大荒れの予報が出ていました。夕方になるにしたがって、気温も下がってきたので、久しぶりに薪ストーブに火を入れたのです。ようやくラウンジも暖まり、夕食の準備も整って、お客さんが席に着いた頃、ストーブの様子が急におかしくなってきました。風が、さらに強まって、煙突から吹き込んだため、不完全燃焼を起こしたストーブから煙がもくもくと部屋に逆流を始めたのです。バックパフです。一皿目の料理を出し終え、私は2品目の料理を作っている最中だったのですが、なかなか主人とスタッフが厨房に戻ってこなくて、おかしいなあと思っていました。そのうち、きな臭い匂いが鼻をついて、外の騒動に気付いたのでした。
     とにかく換気をしなければと、窓を開けたのですが、デッキのドアを開けると、突風が吹きこみ、ラウンジのデッキチェアはひっくり返るし、ストーブからは、さらに煙が立ちこめて、だんだん息苦しくなってくるし、食事をしているお客さんに申し訳なくて、一時はどうしたら良いのか分からなくなりました。お客さんは、煙たい目をしょぼしょぼさせながら、淡々と食事をされているので、次の料理の支度もして、と、頭の中はほとんどパニック状態になっていました。
     常連の島田さんのご主人に、デッキのドアをサンダルをかませて半開きにしていただき、天窓を開けて、ストーブの中で燃えている蒔きを、全部外に出して、ようやく落ち着きを取り戻したのでした。
     ホッとして、ふとピアノを見ると、煤をかぶって真っ白になっていて、悲しかったです。
     薫風舎始まって以来、こんな騒動は初めてでした。
     さて、その日は、東京で活躍する沖縄民謡のデュオ、宮古根(みーこーや)のお二人も泊まられました。4月30日の札幌でのライブを終え、美瑛に立ち寄ってくださったのです。うちでも、特別にミニライブをやってくださるということで、この日を楽しみにしていました。
     薫風舎で、クラシック以外のコンサートははじめて。沖縄民謡には、まったくといって良いほどなじみがなかったので、興味津々でした。
     大騒ぎの夕食を終え、片付けも一段落した9時半頃、お客さんのほとんどが集まってくださり、ライブは始まりました。
     深まる嵐の夜、まだ寒い美瑛で聞く沖縄民謡の調べは、なんともいえない不思議な世界にわたしたちをいざなってくれました。
     始めに、安里屋ユンタという、沖縄民謡のなかで一番有名だという曲を、三線(さんしん、蛇三線)で演奏してくださり、みんなで歌いました。そのあと、芭蕉布、十九の春、花などと続き、サンバというパーカッションも加わって、ちょっぴり照れながら、全員が踊ってのフィナーレとなりました。
     ライブが終わってから、みーこーやのお二人を交えて、沖縄談義に花を咲かせました。あまりにもいろいろなことがあった興奮の夜は、こうしてふけていったのでした。



    99年3月27日 23時01分40秒
    タムさんとの思い出〜餃子番外編〜
      実は、私たちが餃子を皮からを作ったのは、今年が初めてではありません。
      薫風舎がオープンしたての頃、土地を探していたときずいぶんお世話になった、酪農の農家のお宅へ挨拶に行きました。丁度その時、中国から実習生が二人来ていて、手作りの餃子をみんなで食べていたのです。私たちも、ずうずうしく上がりこんで、すっかりご馳走になってしまいました。その時、餃子を作ってくれてたのが、中国の内モンゴル自治区から来ていた、塔木扎布(タムザブ)さんでした。
      タムさんは、国営の食品加工と貿易の会社に勤めていましたが、大学で日本語の勉強をしたので、日本についてもっと知りたいと思い、1年間、奥さんと小さいお子さんをモンゴルに残して、酪農の実習生として、美瑛に来ていたのです。
      気さくで、日本語がとても上手なタムさんは、きらきらした目をして、 祖国のことや将来の夢について、話してくれました。穏やかに、まっすぐに語るタムさんの姿を見て、私たちはすっかりファンになってしまったのでした。
      それから半年ほどした早春、タムさんが、昼休みを利用してふらっと遊びに来てくれました。その時、色々な話をしているうちに、餃子パーティーを思いついたのです。
      4月のある日、農家の方にお休みをもらって、美馬牛で炎創窯をやっている、友達のコーミエーさんファミリーと、たまたま来ていたその友達のフィリップさんを呼んで、タムさんを囲んでの餃子パーティー。何百個という餃子を、ワイワイ言いながら作って、山ほど食べました。初めて食べたセロリの餃子が、とても美味しかったです。
      当時1歳に満たなかった、コーミエーさんの長女ナオミちゃんをあやしながら、みんなで、はじめて皮を伸ばして包んだ、大騒ぎの1日でした。忘れられない楽しい思い出です。
      その年の7月、タムさんは中国に帰りました。私たちは、一年中で一番忙しい季節。朝、農家のお宅に見送りに行くのが精一杯でした。
      それから何回か、タムさんから手紙が届きましが、その後ぷっつりと連絡が途絶えてしまいました。去年の暮れに、クリスマスカードを出したのですが、返事が来ませんでした。何年もたっており、宛先に自信がなかったので、ちゃんと届かなかったのではないか、もう連絡をとることはできないのだろうかと心配になりました。
      ところが、今年に入って餃子を作り始め、2月に、薫風舎日記を読んでくださった横浜さんから、セロリの餃子についてのメールをいただいて、餃子パーティーの思い出がよみがえった矢先、タムさんから突然葉書が届いたのです。
      前の会社を辞め、今は、モンゴルの砂漠化を防止するために木を植える仕事についているとのこと。岩手県に本部のある、砂漠緑化ボランティア協会というところで、今年1月から3月まで研修のため岩手に来ているということでした。職場が変わったために、カードが転送されて、ずいぶんたってから、タムさんの元に届いたそうです。
      そして、3月に入って、タムさんは私たちに会いに来てくれました。4年ぶりの再会です。ネクタイをして、ちょっと貫禄がついたタムさんの笑顔は、以前にもまして輝いていました。
      夜遅くまで、今の仕事のことや、コンピューターを買おうと思っていること、ご家族のことなどを語り合いました。
      翌日、また3人で餃子を作りました。そして、美馬牛のコーミエーさんのお宅にうかがい、みんなで、再会を喜び合ったのでした。思いもかけず、楽しいひとときを共にした人たちと、顔を合わせることができて、本当に幸せな気分でした。
      またいつか日本に来て、日本に関係した仕事をしたいと言って、中国に帰っていったタムさんが、その思いをずっと持ち続け、夢を実現させたことに、私たちは、心のそこから喜び、尊敬せずにはおれませんでした。しかし、タムさんは、私のやりたいことはまだまだこれからと言って、目をきらきらさせて、笑ったのでした。


    99年3月19日 23時01分06秒
    10年ぶりの再会
      二月の最後の週末、私が新卒の時から5年間勤めた、小さな学校の教え子たちが、3人で泊まりに来てくれました。
      札幌から石狩川を渡って、日本海の海岸線を北へ向かうと、ほどなく厚田村という村にさしかかります。その入りぐちに、聚富村(しっぷむら)という、ちょうど美瑛とよく似た丘陵の農村地帯があります。そして、その小高い丘の上にある聚富小中学校というところに、私は5年間勤めていました。目の前に、畑の丘陵と、遠く札幌の街並みを見下ろして静かにたつ、その学校は、最初の年で全校生徒が中学生十八名、小学生は五十名足らずの、本当に小さな小中併置校でした。私はそこに、昭和59年、中学校の音楽の教師として赴任し、中学生と、当時複式だった小学校5、6年生の音楽と家庭科を、教える事になったのです。
      先日来てくれた教え子達は、ちょうどその時の小学5年生。私が聚富を去った年に、中学校を卒業していきました。一度も担任をする事はありませんでしたが、私が5年間音楽を教えた、唯一の学年です。一人は、そのあと私が教員を辞めてからも、彼女が高校を卒業するまでピアノを教えました。一昨年結婚し、今は一児の母、去年急に、ご主人が勤めを辞め、夫婦で自家焙煎のコーヒー屋をはじめたという知らせを聞き、驚きました。(岩井珈琲といいます。札幌の月寒東一条六丁目。011−885−6306。お近くの方、是非行ってあげてください。)
      あとの二人は双子の姉妹で、話をしていたら、会ったのは卒業式以来ではないかということになりました。ふたりとも、今は札幌の会社に勤めて、コンピューターの勉強もしているとのこと。みんな、それぞれ自分の道をしっかりと歩いているようでした。
      夕食後遅くまで、ダンボールから引っ張り出した写真を見ながら、その頃の話しに花を咲かせました。
      慣れない家庭科に私が苦労して、みんなでなんとか作ったケーキのまずかった事、担当していた生徒会が企画した、全校キャンプ、そして、全校生徒で合唱やリコーダーアンサンブルなどに取り組み、石狩管内音楽発表会の大きなステージに立った時の感動など、話していると、まるで昨日のことのように思い出されました。
      次の日、雪で埋もれた納屋にあるダンボールの中から、彼女たちが演奏したテープを探し出し、みんなで聞きました。小学生の時、研究会と音楽発表会のために3年生以上が、何ヶ月も前から特訓した合唱と器楽、中一のとき、先輩達に混じって、リコーダーと格闘した、「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」や、中三のときの、合唱での最後のステージ。どの曲も、みんなの真剣さがひしひしと伝わってきます。
      私がはじめて教壇に立った時、中学生は、みんな下を向いて、声を出そうとはしませんでした。これで、一体どうやって音楽の指導をしたら良いのかと、途方にくれてしまいました。何とかして音楽の楽しさ、すばらしさを、身体で感じてほしいと思い、その年、中学校の先生方の反対を押し切って、無謀にも、石狩管内の音楽発表会に全校で出場する事を決めたのです。時間を作るのがとても難しいので、いやがる生徒たちを説得し、朝練習をはじめました。最初の3年間は、合唱はとても無理で、リコーダー四重奏に取り組みました。長い時間苦労して作り上げた音楽で、大きいステージに立って、少しずつ生徒たちの中に、音楽に対する愛情と、自信が芽生えてきたのでした。そんな彼らが、ようやく4年目にして、合唱で出場する勇気を、私に与えてくれたのです。
      そして、最後の年、のびのびと素直な声で、気迫を込めて大曲を歌い上げ、思いきりステージを楽しんでいた彼らの姿が、今でも私の目に、はっきりと焼き付いています。
      クラスの大半が音楽教室に通うような都会の学校とは違い、ピアノを弾ける子など一人もいないようななかで、全校生徒が一つになって音楽を作り上げていくということは、そうたやすい事ではありません。子どもたちも私も、精一杯がんばったと思います。そして、出来あがった音楽は、今聴きなおしてみても、胸を張れる立派な演奏だったと思うのです。
      彼らの成長の姿は、同時に私の聚富の学校での5年間の歩みでもあり、 その思い出のひとつひとつが、私にとっては宝石箱の中にしまっておきたいほど大切な思い出です。
      10年ぶりに彼女達と出会って、あらためて、私が聚富の学校で、子ども達から教えられたことの大きさを感じ、感謝の気持ちで一杯になりました。そしてなにより、彼女達が、あの頃の素直さ、純粋さをそのままに、まっすぐに成長しているということを、本当に嬉しく思いました。
      


    99年3月11日 21時20分35秒
    餃子に凝っています。3
      今年に入ってから餃子の事ばかり書いているので、ここは餃子屋か?とか、薫風舎はちゃんと仕事をしているのか?などと思われてしまいそうですが、あと一回だけ、お付き合いください。
      おいしい餃子屋さんについては、憧れのホワイト餃子の話とか、今月号のダンチュウに載っていた行ってみたいお店など、まだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、あまりにも特集が長くなってしまったので、それはまた次の機会を待つ事にしまして、今回は薫風舎特製餃子のお話。
      いつも、お客様には美味しいものを食べていただきたいと、日夜努力を惜しまない私達ではありますが、そこにエネルギーを注ぎ込むあまり、いままでどうしても自分達のために料理を作るということが、面倒になってしまっていました。(単に、横着とも言う。)最近になって、ようやく気持ちにもゆとりが出来たのか、オフの時に、ちょっと手のかかる料理を楽しめるようになってきました。
      餃子など、せっかくだから大量に作って冷凍しておこうなどと気張って、疲れ果て、気が重くなるので、敬遠していたのですが、 一回分だけ作るようにすれば良いのだと、当たり前のことにようやく気づいたのでした。
      そう考えると意外と簡単で、またすぐに作りたくなります。初めは、買った皮で作っていたのですが、一度自分達で皮から作ると、もう、全然別なものみたいに美味しくて、病み付きになってしまったのです。
       ああ、思い出しただけで、よだれが出てきました。
      美味しく作るには、(なんて偉そうに。)挽肉ではなく、ばら肉など脂が多目のお肉を包丁で(フードプロセッサーはだめ)叩くこと。それから、餡にスープ(水でも可)を加えると、食べた時にジュワッとダシがしみ出して、たまらなくおいしいです。
      野菜は、キャベツやニラ、白菜が定番ですが、先日泊まられた 横浜さんに教えていただいた、セロリの餃子もとても良かったです。横浜さんは、中国に留学していた本格餃子の達人で、彼女によると、中国では、ありとあらゆる野菜を入れるそうで、ナスや切干大根もおいしいとのこと。そのほか、きのこ類なども入れると良いダシが出ます。
      回数を重ねるごとに、皮の作り方もこつがわかってきて、餡も良い具合に出来るようになりました。(まだまだ素人ですが。)是非、一度食べてみたいというご要望も多数いただいておりますが、残念ながら、薫風舎の夕食は、欧風田舎料理のフルコース。ちょっと餃子の入り込む隙間はありません。そこで、下記の条件をみたす方がいらっしゃいましたら、お知らせ下さい。
    題して、3月限定!薫風舎特製餃子プラン。
    1 リピーターまたは連泊の方。(一度は、うちのDinnerを食べていただきたいので。)
    2 他にお客様がいらっしゃらないとき。
    3 薫風舎の餃子を本気で食べてみたいと思われる方。



    99年2月10日 01時02分54秒
    餃子に凝っています。2
      さて、ようやく本題に入りたいと思います。前回の、薫風舎日記では、餃子までたどり着かなかったにもかかわらず、たくさんの方々から、餃子に関してのメールを頂き、改めて、餃子ってすごい!!と思いました。皆様ありがとうございました。とてもうれしかったです。
      もともと、主人が中華料理、特に餃子が好きで、外食というと、 割合と、中華に走る事が多いように思います。中華といっても、 高級中華料理店ではなくって、安くて美味しい、まちの大衆中華料理屋という雰囲気の所が好きなのですが、北海道にはそういうお店が、とても少ないと、主人はいつも嘆いています。ラーメン屋さんは多いのに、なかなか美味しい餃子を食べさせてくれるところが少なく、旭川では、特に見つけるのが難しいです。
      そんな中、札幌に住んでいたときに通りがかりに見つけたお店が、 いまでも好きで、よく行きます。平岸の、長春飯店(ちょしゅんはんてん)です。
      中国人のご夫婦がやっている、裏通りにある小さいお店で、初めて焼き餃子を食べたときには感激しました。手作りの皮は、弾力があって、具もあっさりしています。その他のメニューも豊富で、どれも安くて、ボリュームがあり、美味しいです。
        札幌の両親は、すっかりお店のご主人と仲良くなり、家族中で、通っています。お正月明けに、久しぶりに両親と行って、北京ダック(要予約)をいただきました。もちろん餃子も!
      去年は、4月に東京に行ったとき、蒲田まで、わざわざ餃子を食べに行きました。歓迎(ファンヨン)というお店です。ダンチュウの餃子の特集に載っていて、東京レストランガイドというホームページでも調べて、どうしても行きたくなったのでした。
      JR蒲田駅から、横浜方向に少し歩いたところにありました。まるで、中国の大衆食堂に紛れ込んだような雰囲気のお店で、餃子は、期待以上のおいしさでした。その他のメニューもものすごく種類があり、珍しいものもたくさんあったので、大いに盛りあがりました。
      なにより気に入ったのは、お店に来ていた大勢のお客さんが、みんな、極めて幸せそうな顔をしていた事。今度東京に行ったら、是非また、幸せを分けてもらいに行きたいと思っています。(つづく)


    餃子に凝っています。
      うちに、一度でも泊まったことのある方でしたら、私達の、美味しい物好き、とりわけ餃子には目がないということをご存知の方が多いと思います。
      夜の団欒のひとときで、話題になるテーマのダントツナンバーワンは、恥ずかしながら、なんと言っても、食べる事。全国各地の、美味しいもの、美味しいお店の情報をお客様から聞き出しては、きっといつか食べに行こうと、二人で夢見ている次第です。
      とはいっても、そうおいそれとは、自分達で行く事が出来ないので、去年から、美味しいもの情報を、ノートにまとめて、私達みたいな食べる事が好きで、行けそうな方々に、紹介したりしています。
      そして、また新たな情報や、行ったことのある人の感想などを聞いて、夢を膨らませているわけです。(そう言いながら、毎年、今年の目標に、ダイエットを掲げているなんて、なんて説得力の無い事でしょう。)
      去年の11月には、函館のお客様に、函館でお寿司を食べるなら、絶対ココ!というお店を教えていただき、はるばる食べに行ったのでした。そのお店に行こうと決めてから、11月にコンサートをしてくださったフルート奏者の山崎衆さん(彼が、またものすごーい美味しい物好きで、その情報量に、みんな舌を巻きました。携帯電話に、すべての情報がインプットされており、どこで何々を食べるなら、このお店!というのが、即座に出てくるのです。)が、偶然、同じお店を推薦してくださり、驚きました。そういうことならば、行かないわけにはいきません。
       そこは、都心からはちょっと離れたところにある、小さなお店でした。とても感じが良く、ご両人お勧めの穴子とサバをはじめ、どれも皆、美味しくて、しかもその割には、値段が良心的で、わざわざいった甲斐がありました。
      函館市深堀町「美ぜん」というお店です。
      あれ?きょうは、餃子のお話をするつもりだったのですが、そこまでたどり着けませんでした。美味しいものの事を書いていると、ついつい長くなってしまいます。あしからず、次回につづく。

99年1月02日 16時08分27秒
元旦の満月
  皆様、新年明けましておめでとうございます。たくさんの、クリスマスカード、年賀状、そして電子メールをありがとうございました。
  皆さんのお便りを読んで、去年1年の、いろいろな出来事、たくさんの方々との出会いを懐かしく思い出しています。また今年もがんばろうと、気持ちを新たにしているところです。本年も、どうかよろしくお願いいたします。
  昨年、26日にメサイアの公演を無事終えて(近日中に詳しくご報告したいと思います)、次の日から大晦日までは、あわただしくばたばたと時間が過ぎていきました。
  30、31日で、なんとかおせちの準備を済ませて、10時頃お客さんと、年越しそばを頂きました。
  美瑛の神社では、年明けと同時に、打ち上げ花火が上がります。毎年、お客様と一緒に、雪の中に上がる花火を眺めながら、初詣をするのが、薫風舎の新年の行事のひとつになっています。
  大晦日まで、深々と音もなく降り続いていた雪も、夜中にはやみ、 いつもに比べると、ずいぶん暖かな(と言っても、マイナス5度ほどはあったと思いますが)、年明けとなりました。
  午前零時前には、いったい美瑛のどこにこんなにたくさんの人がいるのだろう、と思うほど、大勢の人達が神社に集まってきます。参拝の順番を待つ人の列が、数十メートルほどは、あるでしょうか。その列に加わって、夜空に大きく上がる、花火を見ながら、自分の番を待ちます。
  元旦の朝は、とても静に明けました。うっすらと朝焼けも見え、朝食が終わる頃には、十勝岳連峰がその姿をあらわしました。雪煙が舞って、ひときわ美しく、大きく見えたのでした。新しい年は、穏やかな幕開けとなりました。
  夕暮れ時、暖炉の前でぼんやりと窓の外を眺めると、トムラウシのちょうど上のあたり、群青色の空に、大きな大きな満月が出ていました。


Top Page