12月28日 14時45分51秒
「だ体」宣言
薫風舎日記を書き始めた時、お客様に読んでいただくのだからと、わりと迷わずに、「ですます体」で書くことにした。案内板の「今日のひとこと」も、それにならい、わたしは「ですます体」で通してきた。主人は、「だ体」で書くので、文体によって差別化を図るという意味もあった。
しかし、書いていると、どうも「ですます体」では、具合の悪いことが時々ある。そして、その都度、いっそのこと「だ体」に替えようかと、実は悩んできた。悩んできた、といっても、そう深く思い悩んでいたわけではないが、文体に対するジレンマは、私の心の中に、長い間くすぶり続けてきたのである。
「ですます体」だと、どうしても表現が柔らかくなるので、どうも、回りくどい言い方になったり、くどくなったりすることがある。たとえば、「嫌いだ。」と書くと、さっぱりしていて収まりが良いのだが、「嫌いです。」と来ると、なにか、根っこがあるような印象になるような気がして、「あまり好きではありません。」などという、もってまわった書き方になってしまう。そうすると、意に反して、美しく無難な表現をしている自分に、嫌気がさしてくるのである。
かといって、すべて「だ体」で統一すると、もともと飾るのが嫌いな性格なので、今度は「あまりにもそっけない文章」になってしまうことも考えられ、また、自分の性格上、だんだん表現が過激になってしまうのでは、というつまらない心配までしてしまう。実際、「ですます体」のほうが書きやすい題材、というのも、確かにあるのだ。
時々主人に相談するのだが、「そのときに書きやすい文体で書けば良いんじゃない?」とあっさりしている。しかし私には、バックナンバーを読んだ時に文体がまちまちなのはおかしい、という囚われがずっとあって、結局、「今日は、ホントはだ体で書きたいんだよぉ〜。」と内心叫びながら、我慢して、「〜です。〜ます。」と、表現に頭を悩ませ、出来上がった文章を読み返して、なんだかお行儀良すぎていやだ(そんな大そうなものじゃあないが。)などと、ぶつぶつ言っているのである。
今朝、今日の案内板のネタを考えていたら、急に、我慢するのがいやになった。主人にまた相談すると、「そのときに書きやすい文体で書けば良いんじゃない?」といつものように言われた。「そうだ、文体を統一するために、こんなにストレスをためる必要はない。混ぜちゃえば良いんだ。」と、突然囚われから開放されてしまった。
念のため父に相談してみたら、「文体はその日によって変えても、別にかまわないんじゃないか?それより、変な言葉を使わないように、ちゃんと辞書引けよ。」と釘をさされてしまった。ああ、私がバカだった。何を思い悩んでいたんだろう。
と、大げさなものではありませんが、そういうわけで、今日から自由な文体で、書かせていただきます。どうぞ、これからも「薫風舎日記」と、「案内板」をごひいきに。
8月20日 07時09分55秒
夏の花火〜8月20日
昨日の朝、新聞に美瑛どかんと農業祭りのチラシが入っていました。へぇ〜、夜はYOSAKOIソーランか。花火もやるんだ。夏の花火なんて、こっちに来てから6年も見ていないなあ、どうせ廃業するまで見れない、などと話していました。
そんなかなわぬことはすぐに頭の片隅に追いやり、今日も今日とていつもと変わらず仕事に励んでいましたが、夕食の後片付けをしながら時計を見ると、8時50分。そういえば花火は9時からだっけ、急げば少し見れるかも、と急に気持が盛り上がり、協議の結果主人が留守番をすることにして、あっこちゃんとふたり、車を町のほうへ走らせたのでした。
丸山橋近くに行くと両脇に車がたくさん止まっていて、そのまま橋を渡ると、東京ディズニーランドでパレードを見る人たちさながらの(ちょっとおおげさ)すごい人。駐車スペースを探していたら、ずいぶん会場から離れてしまいました。
車から降りると太鼓の音が響き渡り、遠く見える特設ステージでは、まだ大勢の人がYOSAKOIを踊っているではありませんか。気が付くと、あっこちゃんと、サンダル履きで数百メートルはある会場まで走っていました。
息を切らせて人ごみの中を進むと、花火のカウントダウンが始まりました。振り返ると、目の前に大きな花火が打ち上げられました。火の粉が降ってくるのではないか、と思われるほどの迫力で、予想に反して、どうして立派な花火大会でした。
フィナーレは、特にすばらしく、あっこちゃんと、思わず大きな声をあげてしまいました!帰る道、来年は、何とかお客さん全員と、どかんとまつりツアーを決行しようと、心に決めたのでした。
8月07日 22時52分34秒
いつも傍らにチャイがいた
今日、8月7日は、チャイの一周忌です。
チャイは、今から6年前の1994年8月、10月のオープンに向けて急ピッチで進んでいた薫風舎の建設工事の最中、
廃材の中に生み捨てられていました。その年は記録的な猛暑で、連日とんでもない暑さが続いていました。工事の音がとどろきわたり、見知らぬ人が行き来するその工事現場で、チャイは、恐怖で廃材から出れずに、じっと息を潜めていたようでした。
ようやく 姿を見つけ引きずり出して抱きかかえると、手のひらにのるくらい小さな身体を必死で震わせていました。
その日からチャイは私たちの家族となったのでした。
私たちの薫風舎での暮らしは、チャイとの生活の始まりでもありました。
薫風舎では、いつも、チャイが私たちの傍らにいました。
引っ込み思案で、なかなか知らない人には近づけないチャイでしたが、ちょうど、オープン1周年の日、自分で夫を見つけて連れてきました。それ以来、私たちとチャイとムックの暮らしが、あたりまえになっていました。
そんなチャイが突然姿を消したのは、オープンの年以来5年ぶりの猛暑となった昨年8月7日の夕方でした。
どこかへ出かけても、必ずその日のうちには帰ってくるはずのチャイが、朝になっても戻ってこず、心配が募りました。
一年中で最も忙しいシーズンでなかなか身動きが取れない中、炎天下の昼間、夕食を片付け終わってから、と主人とムックと必死で探しましたが、手がかりひとつありませんでした。
1日、2日と時間だけが過ぎていき、自分たちの無力さを感じながら、とにかく無事でいることを願って、探しつづけたのでした。
3日目になって新聞の折り込み広告を頼み、これできっと見つかると信じて午前中の掃除を終えた頃、電話が鳴りました。白金街道沿いの小学校の向かいの増山さんからでした。うちの前の道路ふちに、茶色い犬が車に跳ねられている、という電話でした。主人と、絶対チャイではない、と祈るような気持で飛んでいきました。チャイに間違いありませんでした。名前と電話番号が刺繍してある首輪を恨めしく思いました。
8月7日は白金の温泉祭りで、いつもよりも夕方の車通りが多かったそうです。日中暑くて身動きができず、ストレスがたまっていたのでしょうか。涼しくなって、ついふらふらと出て行って、通りを渡って帰れなくなってしまったのでしょうか。車を怖がるチャイが、なぜ数百メートルも離れた白金街道に出て行ったのか、いまだにわかりません。忙しさにかまけて、そんなチャイの様子を感じ取ってやれなかった自分を恨みました。
どうしようもない悔しさと寂しさ、悲しみががこみ上げてきました。
チャイが、私たちのもとに帰ってきてくれたことだけが、せめてもの慰めとなってしまいました。 世の中に、こんなに悲しいことがあるのか、と疑いたくなるような、つらく長い8月となってしましました。
また今年も暑い夏がやってきました。チャイのいない2度目の8月です。
チャイの柔らかな毛の感触も、抱っこしたときの重みも、一年経った今でも、身体から消えることはありません。
最後に、チャイのことをかわいがリ、気にかけてくださったおおぜいの方々、私たちを慰め、励ましてくださったたくさんの人たちに心から感謝いたします。
6月09日 21時53分00秒
シンラ
本日6月9日発売のシンラ7月号(新潮社)に薫風舎が掲載されました。
シンラは自然をテーマにした、写真の美しい読み応えのある雑誌で、私たちはその母体であるマザーネイチャーズが創刊されたときから、ずっと気に入って欠かさず購入していました。
いつか、シンラに取り上げられるような宿になりたい、という願いを持ちつつ、私たちは薫風舎をはじめたのでした。
3月にライターの高橋さんにお電話をいただいたときには、取材を受ける前から、発売日が楽しみでならなかったくらいです。
5月7日の取材の日は、北海道は新緑にはまだ少し早く、周りの木々はさびしいかぎりです。少しでも緑をと、いつもより早く、ガーデニング用のコニファーや、霜が下りても大丈夫なパンジーを買ってきて、せっせと鉢植えを作りました!
撮影は一日がかり。カメラマンの渋谷さんは、お天気をにらみながら、お昼過ぎから夜まで走り回って、たくさんの写真を撮ってくださいました。高橋さんは隅々までうちのことを良くわかって、丁寧に取材してくださいました。お二人には、本当に感謝しています。
8時過ぎに撮影がようやく終わり、それから夜遅くまで、それぞれのお気に入りのCDを聞いたり、大笑いしながら語り合った楽しいひと時は、忘れる事が出来ません。
ところがショックな事に、取材を終えてしばらくして、シンラがこの号で休刊になるということを知りました。
こういう足元のしっかりした質の高い雑誌が、どうしてなくならなければならないのでしょうか。いまだに信じられません。
そのことを知った友人がメールで、「世の中いいものから消えていくようだ。」と言っていました。まさにそのとおりだと思いました。
最近は、雑誌でも、食材でも、なんでもかんでも、質を全く問わずに、売れ筋商品しか取り扱わない風潮を感じます。流行に左右されない上質のものは、どんどんなくなっていくような気がします。
また、やはりメールで、「良心的な雑誌は宣伝もあまりしないし、広告も少ないので経営は大変なのでしょうね。」と書いてくださった方もいました。
質の高いものが無くなっていくということは、言葉を返せば、選ぶ側の質の低下ということなのだと思います。
シンラ休刊の本当の理由はわかりませんが、なんだかやりきれない思いがします。いつの日か、シンラが新しい形で生まれ変わり、私たちの心をふたたび癒してくれることを、心から望みます。
6月03日 18時36分50秒
今朝からカッコウ!
2年前薫風舎日記で、カッコウの不思議について取り上げました。
そのときにも触れましたが、このあたりでは、カッコウが鳴くと安心して野菜の種まきができるといわれています。
今年は、5月に入り暖かい日がわりあいと多かったにもかかわらず、なかなかカッコウがないてくれず、やきもきしていました。が、本日午前11時頃でしょうか、突然カッコウの鳴き声が、薫風舎に響きわたったのでした。
今日はまた真夏のようにむし暑く、残雪の十勝岳連峰も霞んでいます。
カッコウの声になんだかせかされるように、まわりの風景も夏へと向かっているようです。
まだ、信州東北のあたりをうろついて、ひんしゅくを買っている人もいますが、 (薫風舎日記前号参照)そんなのんきな事は言ってられません。
さあ、明日から天気を見ながら、野菜の種をせっせと植えなくっちゃ。
2000年2月08日 00時30分51秒
東北、長野の旅その3〜志賀高原
年末に、私が教員時代に大変お世話になった先生から、思いがけずメールがきました。「ホームページ見ました。薫風舎日記、あまり長いので、途中で読むのがいやになりました。」
す、すいません。いつも反省していたのですが、書いているとついつい長くなってしまって・・・。
だいいち、こんなペースで書いていたら、いつまでたっても東北から帰って来られません。美瑛の冬の美しさを書く前に、春がきてしまいそうです。・・・というわけで、うすれゆく記憶と戦いながら、先を急ぐことにします。
叔父が、長野の北志賀の夜間瀬というところで、スキー学校をやっています。数年前までは、志賀高原の石の湯というところにあり、私も学生時代、石の湯山荘というスキー学校のロッジで、住み込みのアルバイトを何度かやらせてもらいました。その頃、主人も、そこでアルバイトをしていたので、長野、とりわけ志賀高原は、私たちにとって、大変思い出深い、懐かしいところなのです。
アルバイトの時以来、二人でそこを訪れるのは、今度がはじめて。主人は、十数年ぶりです。
山形の酒田から、まっすぐ長野に向かい、そのまま志賀高原の渋峠まで一気に上りました。
志賀高原に差し掛かると、今まで私たちの目を楽しませてくれた、杉林に混じって、なつかしいカラマツの木がちらほらと見え始めます。登っていくにしたがって、その割合が逆転し、どこからか、急に杉の姿が見えなくなって、横手山を過ぎると、道路のわきに白いものが見え始めました。
晴れ渡った青空が、やがて、沈みゆく夕日に少しずつ赤く染まっていくなか、刻々とその色を変えていく、遠い山々の表情と、うっすらと雪をかぶったカラマツの林が重なり合った風景は、美しいというよりも、神々しいとさえ思わせるものでした。
山を下りながら、当時お世話になった方々と、再会を喜び合うことができました。
変わらぬ風景と、変わらぬ人々、ただひとつだけ、時代に取り残され、今はもう廃墟と化してしまった、変わり果てた石の湯山荘の姿に、言いようのない寂しさを感じたのでした。つづく・・・。
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